野村克也
京都府出身。74歳
京都府出身。74歳
通算試合出場数は歴代1位、通算の安打、本塁打、打点、塁打数は
歴代2位。
1965年には戦後初めての三冠王に輝いた。
球史に名を残す大選手であり、
本人は「俺は王貞治さえいなければ三冠王だった」とぼやいている。
1989年に野球殿堂入りしている。
監督としても、リーグ優勝5回、日本一3回の実績を残し、
日本を代表する名監督と評価されている。
選手・監督時代を通じて勝つために様々な工夫や駆け引きを重ねており、
野球理論・野球技術の発展に貢献している。
理論を重視していて、精神力を軽視しているように見られがちであるが、
著書を見る限り、理にかなった精神力は重視している。
少年時代は家庭が貧しく、父要一は野村が3歳の時に満州にて戦死。
丹後ちりめんの産地で、周囲は裕福な家庭が多く、
貧困の劣等感にさいなまれながら、
小学校1年から兄とともに毎日新聞配達をしていた。
しかし、母がガンを患い、病弱で父の戦友の助けも借り何とか生活した。
頑丈な体と精神はこのころ作られたといえる。
貧乏な生活から脱却したいとの思いから、
将来は歌手になろうとコーラス部に所属したり、
俳優になろうと映画館通いをしていた。
アマチュア時代は全くの無名選手であったが、
京都府立峰山高等学校から契約金0のテスト生として1954年に南海に入団。
南海の入団テストを受けた理由は、当時の南海の捕手層が薄く、
しかも高齢化していたことから、
一軍のレギュラーに一番なりやすいと踏んだからである。
1957年に山内和弘(毎日)、
中西太(西鉄)ら並居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。
以降毎年のようにタイトルを獲得し、南海の黄金時代を支える。
同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べると
世間から注目されることは少なく、
今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。
1975年5月13日、野村が史上初の通算2500本安打を達成したときも、
当日の観客はわずか6000人ほどであり、
また拍手をしたのは数十人であったといわれる。
野村はこの試合後のインタビューで、
「王や長嶋がヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草」
と答えた。
以後、「月見草」が野村の代名詞となった。
活躍の要因として、
試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことがあげられる。
当時の鶴岡監督率いる南海は根性野球のイメージが先行しがちであったが、
実際は他球団に先駆けてデータを集め、
活用する体制を取り入れており、
データの収集に当たっていた尾張久次は
日本プロ野球のスコアラー第1号ともいわれている。
今まで見た投手の中で、
もっとも球が速かったのは金田正一と言っている。
当時、MAX155キロだと検証されている。
また、野村が対戦した打者の中で一番恐ろしかったのは、
榎本喜八だと述べている。
阪急の1番打者として活躍していた福本豊の盗塁を阻止するため、
投手に素早いモーションで球を投げさせた。
これが後のクイック投法の原型となった。
クイック投法は現在ではどの球団、
更にはメジャーリーグでも採用しているが、
1番最初に発明したのは野村であった。
選手として22回のオールスター選出は歴代最多。
このうち1957年から1977年まで21年連続でファン投票選出されており、
ファン投票選出回数、連続選出回数ともに、
王貞治と並ぶ歴代最多記録を持っている。
同年8月1日に前人未到の3000試合出場を達成。
同年に引退。
実働26年、45歳であった。
2005年10月3日、
社会人日本選手権を最後にシダックス監督を退任するとともに、
楽天の監督の要請を正式に承諾、5年ぶりのプロ野球界復帰となった。
日本のプロ野球において、
70歳代の監督となったのは仰木彬に次いで史上2人目であり、
1年間監督を続け仰木の持つ最年長監督記録を更新した。



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